日常の「ひっかかり」を、誰かに届く言葉へ。矢部太郎さんと考える、発信で大切にしたいこと
介護・福祉は、誰かの生活や暮らしを守り、支える仕事です。その日々のなかには、ドラマのような出来事以上に、何気ない会話やふとした表情といった、小さな瞬間がたくさんあります。
その魅力を、自分の言葉で届ける力へと磨いてきたのが、2025年10月に開講したコミュニティ型オンラインスクール「KAIGO LEADERS SCHOOL」です。4か月間の学びの集大成として、2026年2月22日(日)、「KAIGO LEADERS SCHOOL AWARD 2025〜ケアの魅力、ここから広がる〜」が開催され、2つのトークイベントが行われました。
本記事ではその前半、「日常の『ひっかかり』を、介護の発信につなげる」をテーマに行われた、芸人・漫画家の矢部太郎さんとのトークをお届けします。矢部さんは、お笑い芸人として活動する傍ら漫画家としても活躍。2018年に刊行された『大家さんと僕』(新潮社)はシリーズ累計140万部を超えるベストセラーとなり、第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞しました。
誰かとの日常を描くとき、どこまでを表現し、どこからを描かないのか。会場から寄せられた問いに向き合いながら語られた矢部さんのトークには、表現者として大切にしていることがありました。
後半:兵庫県立大学 環境人間学部教授・竹端寛先生のトークはこちら
「大家さんのことを描きたい」から始まった

みなさん、初めまして。株式会社Blanket代表の秋本可愛です。私は大学在学中に介護現場でのアルバイトをきっかけに課題意識を抱き、2013年卒業と同年に会社を設立しました。その後、介護に志を持つ若者のコミュニティ「KAIGO LEADERS」を立ち上げ、今回コミュニティ型オンラインスクール「KAIGO LEADERS SCHOOL」を開校しました。今日はスクールの集大成となるイベントに先駆け、トークイベントとしてお笑い芸人であり漫画家の矢部さんにお越しいただきました。矢部さん、本日はよろしくお願いいたします。

よろしくお願いします。今日は4か月間にわたって学んできた方々のハレの舞台なんですよね。そんな場に呼んでいただけて光栄です。


今日は、「日常の『ひっかかり』を、介護の発信につなげる」をテーマにお話しできればと思っています。KAIGO LEADERS SCHOOLではこれまで、現場で働く介護職員の皆さんが、介護の魅力を発信するために、ライティング・SNS・場づくりの3つの切り口から学びを深めてきました。
ただ、「魅力を発信する」と聞くと、どうしてもドラマのような感動的な場面を語らなければならないのでは、と身構えてしまうことがあるんですよ。でも介護の魅力は、実はもっと些細な日常のなかにあるのではないかと感じています。
そんな「日常の良さ」を丁寧にすくい上げている作品が、2018年に刊行された『大家さんと僕』(新潮社)です。日々の暮らしのなかにある温かな瞬間が描かれ、気を抜くと見過ごしてしまいそうな時間に宿る魅力を教えてくれる一冊だと思っています。今日はその視点について、ぜひお話を伺えればと思います。
矢部 太郎著『大家さんと僕』(新潮社)

『大家さんと僕』は、2016年頃に高齢の女性が大家さんをされている一軒家の2階に、僕が引っ越したのが始まりです。大家さんは1階で生活されていて、その後の約10年間にあった日常の出来事を4コマ漫画として描き、書籍にしました。

そもそも矢部さんといえば、お笑い芸人の印象が強いのですが。

まだ覚えててくださったんですね!

もちろんです(笑)。お笑い芸人というお仕事をしながら、漫画家になろうと思ったのはどうしてだったのですか?

それはまさに、大家さんとの出来事を描きたいと思ったからですね。「漫画家になろう」と思ったわけではなく、「素敵な大家さんのことを描きたい!」と思って漫画家になりました。


そうだったんですね。それがシリーズ累計140万部のベストセラーとなり、第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞されるとは…すごいです。

それはもう僕に才能があったからで……って、そうではなく(笑)。ほんとうに大家さんが素敵な方で、大家さんのおかげなんですよ。

私も心を動かされた読者の一人ですが、大家さんとの日々を、どのように作品にしていったのでしょうか。

大切にしていたのは、「大家さん自身にも読んでもらいたい」という思いでした。大家さんは当時80代後半。読んでいただくなら、新聞などで親しみのある4コマ漫画の形がいいだろうと考えました。絵も、緻密な描き込みや複雑な表現は避けて、できるだけシンプルで分かりやすいものにしています。

確かに、すっと読めますよね。

現代では、ほとんど絶滅したスタイルかもしれません(笑)。でも、「大家さんに読んでもらいたい」と考えたとき、この形がいちばん自然でした。結果として、大家さんのように普段漫画をあまり手に取らない方にも届いたのだと思います。
刊行後、印象に残っていることがあって。精神科の受付の方から、「院長が『待合室に置いていい』と言った本が2冊あって、それが矢部さんの漫画と猫の写真集なんです」と声をかけていただいたんです。猫の写真集くらい優しい漫画なんだと思い、嬉しかったですね。

表現しようとすることで、関係性を捉え直す

「大家さんのことを描きたい」、そして「大家さんにも読んでもらいたい」と思われたなかで、作品に描かれている日常のシーンは、どのように見つけていったのか気になります。

描こうと思った当初は、やっぱり印象的な出来事ばかりが思い浮かびました。でも、そうやってすぐに思い出せる出来事は、どこかありふれている気もして。大家さんと僕という関係において、「本当に描きたいのは、こういうことなんだろうか?」と立ち止まったんです。なんというか、もう一度布団の中に潜って、うーんうーんと考えながら思い出したことのほうが、僕と大家さんらしい出来事だったんですよね。
たとえば、デートのことを「ランデブー」とおっしゃったり、自動販売機を「ジュースボックス」と呼ばれたり(笑)。「矢部さんを見ると、なんで日本が戦争に負けたか分かるわ」「昔の好きなタイプは、マッカーサー元帥だったわね」といった何気ない一言もそうです。忘れていたけど、もう一度思い出せたことのなかに、大家さんと僕らしいと思えることがたくさんありました。


すぐに思い起こせる出来事ではなく、一度寝かせてみることで、お二人の関係性のなかにしかないものが見えてきたのですね。

そうですね。そして、関係性を客観的に見つめ直すことができたとも思っていて。実は、住み始めた当初は、大家さんとそれほど仲が良かったわけではなかったんです。あるとき、洗濯物を出しっぱなしにして外出していたら、「雨が降ってきましたよ」と大家さんから電話がかかってきたことがあって、それどころか、勝手に取り込まれたこともあるんです。当時の僕は「煩わしいな」と思っていました。
でも、いざ漫画を描こうと思ったとき、大家さんがご家族を亡くされていたことや、そのご家族が使っていた部屋に僕が住まわせてもらっていることを思い出して……。もしかしたら、僕のことを家族のように思ってくださっていたのかもしれない、と気づいたんです。

表現しようとすることで、自分の気持ちに向き合ったり、関係性を捉え直したりすることにつながった。

そうですそうです。インプットから学べることももちろんありますが、アウトプットすることでも学べることはたくさんありますよね。2023年に認知症患者とその家族の日常を描いた『ぼけ日和』(かんき出版)を刊行したのですが、そのときも、認知症や介護、老いについてもっと知りたいと思い、学ぶきっかけになりました。

『大家さんと僕』では、矢部さんのフィルターを通して大家さんの老いを感じさせる描写がありました。一般的にはネガティブに受け止められがちな場面も、作品のなかではあまり重たく感じないなと思っていて。何か心がけていることがあるのでしょうか?


僕が描けるのは、自分事として捉えられることだけだと思っています。それが社会性を持つテーマであれば、サービス精神をもって描きたい。老いも、大家さんの話であると同時に、いつか自分にも訪れることとして描いています。
それから、表現が重くなりすぎないように意識しています。ホラー漫画って、画面が真っ黒に塗りつぶされていたり、おどろおどろしい描き方をしますよね。あれは人を怖がらせるための表現。ならば、人を安心させたいなら、その逆をすればいいんじゃないか、と。だから、できるだけやわらかいタッチで、優しく伝えたいと思っています。
誰かのことを描く・表現するからこそ大切にしたいこと

会場からリアルタイムで質問が届いています。順番にご紹介しますね。
大家さんとのことを描くなかで、やらないようにしていたことはありますか? また、大家さんとの間だけに留めておきたい話などはありますか?

大家さんご自身の個人的なことは、描かないようにしています。本名や住んでいる場所などの個人情報はもちろんですし、お話しした内容のなかでも、大家さんにとって大切な出来事は描きません。
漫画にする内容についても、必ずご本人に「描いてもいいですか?」と確認していますね。その場では「なんでもいいわよ」と言ってくださるのですが、だからこそ、僕のなかで描く・描かないの線引きはきちんと守るようにしています。


書籍の冒頭では「これはフィクションです」と明言されていますよね。

どんなジャンルであっても、漫画はあくまでフィクションだと思っています。たとえば、このトークイベントも、僕がキャラクターとして描いたら、それはもうフィクションですよね。大家さんのことも、漫画にした瞬間に描かれたもののほうが事実のように感じられてしまう。でも、本当の事実は、大家さんが存在していること、そして生きていることだけだと思っています。

表現されたものは、あくまでフィクション。『大家さんと僕』では、矢部さんご自身のことも描かれていて、くすっと笑えるオチを示してくれる存在として描かれていますよね。

限られたコマのなかで、描くときは3台のカメラの視点を意識していますね。僕からの視点のカメラ、大家さんからのカメラ、そして客観的なカメラ。3台のカメラがあるとしたら、最後は客観的なカメラがオチにくるように意識しています。


ほかにも質問が届いています。
自分自身に向き合い、客観視することは、目を逸らしていた側面にも向き合うことになり、ときに苦しくなるのではないかと思います。矢部さんは、そのように感じることはありますか?

ありますね。恥ずかしいなと思うこともありますし、そう思いながら描いています。だって、大家さんとの出来事を描いてお金をいただくというのは、とても浅ましいことにも思える。でも、だからこそ、その恥ずかしさや浅ましさも抱えたまま、責任をもって描かなければいけないと思っています。
「基本的人権を守る」のが発信の土台

介護の魅力発信にも通じるところがありますが、発信するということは、多くの方へ届くということでもありますよね。不特定多数の方に届けるときに、大切にしていることはありますか?

僕に大切なことを教えてくれた書籍の一つに、1996年に手塚治虫さんが刊行された『マンガの描き方』(光文社)があります。その本の最後に、これだけは守らなければいけないことが書かれていて。「どんなに刺激的な表現や驚かせる表現をしたとしても、基本的人権は絶対に守らなければいけない」と。戦争や災害に遭われた方をからかってはいけない、人種や国籍などの属性で差別してはいけない…など。
言葉にすると当たり前のことですが、誰もが発信できる時代だからこそ、本当に大切にしています。


そう考えると、矢部さんは発信することに怖さを感じることはありますか? 実は受講生からも、「発信することが怖くなった」という声をもらうことがあるんです。

僕は、発信する前に複数人の人に見てもらっていますね。書籍でいえば編集者さんに見てもらいますし、編集者さんに見せる前に仲の良い友人たちに見てもらっています。「新しい作品ができたんだけど、どう?意味わかる?」と送る相手が何人かいるんです。何を送っても「いいね」と言ってくれる友人もいれば、気になるところがあればはっきり指摘してくれる友人もいます。そうやって何クッションか挟むことで、自分ひとりの主観に閉じずに済む。だからこそ、安心して発信できるのかもしれません。

今後、描いていきたいテーマがあれば、ぜひお伺いしたいです。

先ほどお話しした『ぼけ日和』もそうですが、介護や福祉に携わるご家族の目線から見た日常のエピソードを届けていけたらなと思っています。『ぼけ日和』の原案である著者の認知症専門医の長谷川嘉哉先生とともに、YouTubeでほっこりエピソードも募集しています。ぜひ、みなさんの投稿をお待ちしています!

最後に、これから発信しようとしている受講生へ、メッセージをお願いします!

僕は引っ込み思案な性格で、新しいことにはつい躊躇してしまうタイプです。そんなときに先輩から言われたのが「評価は他人がすること」だと。自分で自分を評価せず、発信したら他者の評価が待っているから、その世界へ飛び込んでみたら、と言ってもらったんです。どうなるかはわからないけど、基本的人権を守るという土台さえ大切にしていれば、発信することで思いもよらない景色が広がるかもしれない。そう思っています。

後半:兵庫県立大学 環境人間学部教授・竹端寛先生のトークはこちら
プロフィール
矢部 太郎
芸⼈・漫画家
1997年にお笑いコンビ「カラテカ」を結成。2018年、初めて描いた漫画『⼤家さんと僕』(新潮社) で第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞しシリーズ累計135万部の大ヒット。
俳優としても活動中で、俳優としてはNHK⼤河ドラマ「光る君へ」で⼄丸役、2025年放送のTBS日曜劇場「19番目のカルテ」では天白龍馬役で出演した。
写真撮影
近藤 浩紀/Hiroki Kondo
HP HIROKI KONDO PHOTOGRAPHY
