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イベントレポート

Re.kishil【中編】「やってあげる介護」はおしまい。2000年以降の介護

この記事は、3回にわたってお届けしているイベントレポートの中編です。

12月9日にオンラインコミュニティSPACEで開催された介護の歴史を学ぶイベント「Re.kishil -歴史を知り、未来へ向かおう-」についてレポートしています。

前編では、戦前から1990年代までの介護の歴史に迫りました。
中編の今回は、介護保険制度がスタートした2000年からの10年間、どのようなことが起きていたかをお伝えします。
情報提供者は、金山峰之さん。ファシリテーターは、軍司大輔さんです。

「お世話する」から「自立を支える」へ -介護保険制度設立後、怒涛の10年-

(1)「自立支援」発展の傍で露呈した「高齢者ビジネス」の裏側

介護保険制度が施行された2000年。
これと同時期に認知症ケア学会の創設や「センター方式」などを開発した認知症研究・研修センターの設置など、“ケア”にまつわる国の動きが加速していきました。

この動きの背景には、2000年から運用された「ゴールドプラン21」が同時に動き始めたことも挙げられます。
「ゴールドプラン21」では、それまで「お世話をする」対象だった高齢者は「生活の自立を支援する」対象となりました。高齢者が「生きがいを持って社会参画できる」ことを目指すようになったのです。

それに伴い、介護福祉士を養成する現場、そして介護現場にも変化がみられます。

それまで介護福祉士の養成校の講師は看護師が比較的配置されていました。しかし、2001年、ようやく養成校の教員として介護福祉士が重要な存在として配置されていきました。

さらに、依然として現場で続けられていた身体拘束に対し厚生省がアプローチをします。「身体拘束ゼロ作戦」と銘打ってケアの改善が進められていきました。

2015年問題で注目される特養ホームでのユニットケア

2003年になると、戦後のベビーブームで誕生した世代が65歳以上になりきる「2015年問題」へ向けた動きが始まります。

この2015年問題を考える上でも、大切にされたことは「高齢者の尊厳」と「自立支援」。この頃注目されたのが特養ホームでのユニットケアでした。
建物の規模は今までの特養と同じであるものの、1人ひとりが完全個室の中で生活できることや、10人程度の小規模なユニットに分かれて生活を送ることで介護職側も1人ひとりに向き合ったケアが可能になったためです。

その後、2004年と2006年では、立て続けに“ケア”に関する大きな動きがみられました。

2004年に京都で開催された「国際アルツハイマー病協会国際会議」
この会議では認知症当事者である越智俊二さんが壇上に立ち、講演する場が設けられました。

また、越智さんと同じく認知症当事者として国際的に発信を続けたクリスティーン・ブライデン氏も、日本の認知症ケアに大きな影響を与えました。

当時は、「高齢者の自立支援」、「尊厳ある生活」を目指していたものの、まだまだ認知症や高齢者の介護に対する捉え方は「弱い立場の人のお世話」でした。認知症の当事者が自身について公の場で話す姿は国民に衝撃を与え、認知症に対する捉え方を大きく変えるきっかけになりました。

活発化する高齢者の自立支援や尊厳の保持

2006年には、「高齢者の生活を支える」、「尊厳を支える」動きがより具体的になっていきました。
はじめに、第3期の介護保険法改正です。
この改正では、高齢者のニーズとして最も高かった「家族に依存しすぎず、自宅で生活をしたい」という声を反映させ、高齢者の生活を施設だけではなく地域で協力しながら支えあっていく地域包括ケアシステム」という概念が盛り込まれました。

さらに、「高齢者虐待防止法」が施行されます。
身体拘束をはじめとした介護現場で行われていたことの「何が虐待に値するのか」が初めて明文化された法律ができました。
これにより、曖昧だった「虐待」が定義され、介護をする上で「やってはいけないこと」が明確になりました。 

さらに、認知症サポーター養成講座が開始されたり、アルツハイマー型認知症の方とコミュニケーションを取る技法「バリデーション」が現場に紹介され始めたりと、国の制度だけではなく、介護現場でも「高齢者の自立支援」「高齢者の尊厳を確保する」ための動きが活発になっていきました。

自立支援や尊厳の保持など、介護保険制度の施行時に目指した高齢者介護の姿が実現を遂げていく最中だった2007年。大きな変化が現れました。

 

「福祉」が消えた介護福祉士のカリキュラム


社会福祉士および介護福祉士法(以下、士士法)の一部改正と、新福祉人材確保のための基本指針が見直されたのです。

その背景には介護労働者の人材不足、そして介護に対するニーズの変化がありました。

士士法の改正により、それまで「入浴・排せつ・食事その他の介護」と定義付けられていた介護福祉士が行う“介護”が「心身の状況に応じた介護」に改められました。それに伴い、資格取得のためのカリキュラムも大きく変化していきました。

「介護福祉士養威課程における教育カリキュラムの見直しについて」その新カリキュラムについて、金山さんは以下のように語ります。

新カリキュラムでは、社会福祉援助技術論(ソーシャルワーク)などの大事な福祉的要素がほとんど見えなくなりました。ある意味“介護”に特化したカリキュラムになったんですね。でも社会福祉士、介護福祉士なのに“福祉”という部分を学ぶ機会が激減してしまったと僕は思っています。

現在の介護に求められている“地域を巻き込む”というのは“社会福祉援助技術”にもつながる部分があります。でも、学ぶ機会を失ってしまったように感じますね。勉強する機会がないのに「地域を巻き込んでやってください」って言われてるようなもんですから、困っちゃいますよね。

さらに、新福祉人材確保のための基本指針の見直しでは、それまで「質の高い人材確保」に重きを置いていた国の方針が、「量を確保することを優先せざるをえない」という方向に変化していきました。

これは結構重要な見直しでした。質よりも量を確保することの方が優先されるきっかけになったのがこの見直しと言われています。

コムスンショックにより幕引きとなった介護保険バブル

量の確保が優先されたこの時期に起こったリーマンショック。それを契機に職を失った人が介護の仕事へ転職する動きが活発になったと金山さんはお話してくださいました。

この当時、僕は介護職員基礎研修クラスの講師をしていました。受講者はものすごくごちゃごちゃ。失業をきっかけに職業訓練としていらした方心の病気を患った方、航空会社の客室乗務員だった方……等。そんな多様な人がいるクラスで講師をしていた僕はまだ27歳。当時は少しでも介護経験と条件があえば講師になれてしまったんですね。そのくらい、量の確保に重きが置かれた時期でした。

量的確保に重きが置かれ、介護人材の確保に歩み出ようとした最中、大きな事件が起こります。その事件とは、コムスンショックです。

 訪問介護の最大手だったコムスンの不正が発覚し、厚生労働省から処分を受けたこの事件により、多くの利用者・スタッフに影響がおよびました。

コムスンショックをきっかけに、政府は介護業界に対し、それまで以上に、法令遵守を強く求めるようになったのです。

国民全員が等しく介護を受けられる機会を作るために次々と出来上がった介護施設、事業所。労働力の確保のために、コンプライアンス重要視ていない事業所も多かった時期でした。

高齢者ビジネス、高齢者バブルでどんどん人を業界へ入れる必要がありました。だから、ゆるゆるだったんですね。この事件を境に「これからは厳しくやっていくよ」という動きが進められていきました。本当に大きな事件でした。

さらにこの事件を受け、介護業界の不正などに関するメディアでの報道が増加したのです。
結果として、いわゆる「介護業界は3K(きつい、汚い、危険)」というマイナスイメージが定着しはじめるようになりました。
コムスンショックに伴い、90年代から謳われていた「介護保険バブルの時代」に幕が下ろされました。

(2)日本の介護を守るために、国も市民も動き出した

「このままでは、介護保険制度そのものが壊れてしまう……」

 介護保険制度が始まって10年も経過しない時期に起きたコムスンショック。この事件の背景には介護報酬改定や深刻な人材不足がありました。
これはコムスンに限らず、介護現場全体の現状と言っても過言ではありませんでした。

この現状を把握した国は、人材の量的確保と処遇の改善に向けて動き始めます。

翌年の2008年には介護従事者等の人材確保のための介護従事者等の処遇改善に関する法律が制定され、処遇改善が法的に約束されます。
さらに2009年の介護保険法改正で、史上最大となるプラス改定がなされました。

日本の介護を守ろうと動き出したのは、国だけではありませんでした。
長年続けられていた市民団体等の活動も、社会により発信されるようになりました。

その例として、介護保険法の改正に対して活動を進めた「介護保険を持続発展させる1000万人の輪」の提言やメディアにより広がったネガティブイメージに対して、介護職同士が繋がり、仕事の楽しさなどを共有・発信していく有志の活動が広がっていきました


画像:金山さん主催、ケアに関心のある人が集まる対話の場「Linkスペース」

これにより、介護従事者だけではなく、介護に関心がある人同士がつながる場が広がるきっかけが生まれました。こうした業界内の有志の繋がりの場は今も各地で広がっています。

市民団体の活動でも活発だったのが、女性の方々の団体でした。
かつて「戦後の女性の労働の場」として成り立った訪問介護。ここからもわかるように、介護業界の労働力は多くが女性でした。
女性の労働環境を守りたい」、「女性を今の介護から解放したい」。そうした思いを提言していたのが女性の市民団体だったと言えます。
「高齢社会を良くする女性の会」などの団体が現在でも積極的に活動をしています。

現状の見直しとともに進められたのが、2015年に向けた地域包括ケアの準備です。

介護保険制度内で全てのニーズに応えることへの限界がすでに見えていたので、「高齢者のニーズや自立支援に介護事業所が全て応える」のではなく、「地域との協力のもとで高齢者の自立支援をしていく」という方針が定まりました。

これに伴い、小規模な事業所を起業する若者が増えていきました。

「これまで大きなところができなかったことをやっていこう」

小規模事業所の増加は、介護施設の中だけで完結していた高齢者の自立支援を、地域と共に進めるきっかけになっていきました。
高齢者ビジネスの最盛期の終焉、より活発化した市民活動団体……。
介護保険制度の施行から10年、さまざまな動きがありました。
そして、「お世話する」のではなく「自立を支援する」仕事となった介護。2010年代ではどのような変化が見られるのでしょうか。

後編では、2011年から現在にかけての変遷、そして話題提供者である金山さんが予想する“これからの介護”についてお届けします。

話題提供者・ファシリテーターの紹介

話題提供者:金山峰之(かやま・たかゆき)

介護福祉士、社会福祉士、介護支援専門員。
ケアソーシャルワーク研究所 所長。
現場で働く傍ら、職能団体の活性化をはかる活動や、研究、コンサルティング、介護関連の講演、講師、教育活動に取り組んでいる。

ファシリテーター:軍司大輔(ぐんじ・だいすけ)

NPO法人コトラボ代表理事。
珈琲豆屋&珈琲スタンド OLIVE HOUSE COFFEE を運営する傍ら、医療福祉系大学での非常勤講師や 各種介護研修講師を務める。 

この記事を書いた人

渡部 真由

渡部 真由MAYU WATANABE

株式会社あおいけあ ケアワーカーKAIGO LEADERS PR team

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