Re.kishil【前編】日本に“介護の仕事”はいつからあるの?ー歴史を知り、未来を語ろうー
超高齢社会である日本。日々、どこかで“介護”という言葉を耳にする人も少なくないと思います。
“介護”
その言葉に、どんな印象を抱きますか?
介護職員がおじいちゃんおばあちゃんをお世話する光景、それとも一緒に料理や散歩をして楽しむ光景でしょうか。
もしかしたら、「給料が安くてきつい仕事」という印象を抱いた方もいるかもしれません。
今、あなたが思い浮かべたその光景や印象は、いつからぼんやりと根付いているのでしょう。
知っているようで知らない“介護にまつわる歴史”をのぞいてみませんか。
2020年12月9日に、オンラインコミュニティSPACEで開催されたイベント「Re.kishil-介護の歴史を知り、未来へ向かおう-」では、日本の介護がこれまでどのような変遷を歩んできたのかを学びました。
話題提供者としてお話してくださったのは、「フリーランス介護職」として働く金山峰之さん。ファシリテーターは、コーヒーの焙煎士をされている傍ら、介護福祉士の養成校などで講師を勤める軍司大輔さんです。
戦前から現在に至るまでの国の制度や「認知症ケア」など、主に認知症介護に携わる介護職にまつわる歴史を、大きく3つの時代に分けてお話ししていただきました。
レポートはその3つの時代に分けて、前編・中編・後編としてお届けしていきます。
今の「介護」、どう思いますか? -歴史を知ることは未来を作ること-
今の介護について、皆さんはどんな印象をもっていますか?
会の冒頭、軍司さんから投げかけられたこの問い。
グループに分かれ、参加者それぞれが持つ印象について話し合いました。
この話し合いのねらいは、「自身が持つ介護への印象は、どの時代が基準になっているかを知る」こと。
自分自身が持つ介護の印象はいつの時代が基準になっているのか。それを整理した上で歴史を知ることが、これからの介護の未来を作っていく一歩になります。
このように、軍司さんはお話しされます。
介護の仕事をしていても、なかなか触れる機会がない介護の歴史。
その歴史を知ることは、現代の介護に対する疑問や課題意識を解決するヒントになるかもしれません。
この記事を読み進める前に、皆さんもぜひ考えてみてください。
介護は“究極のサービス業”?「介護の仕事」の、日本での位置付けとは。
金山さんより、「介護の仕事」の位置付けについてお話いただきました。
介護は究極のサービス業なんて言われることがありますが、実は産業的にいうとサービス業じゃないんです。
総務省が定める「日本標準産業分類」
ここには日本にあるさまざまな仕事がどのような産業に分類されるかが明記されています。
介護はサービス業には分類されず、「医療・福祉」という分類になっています。
ではなぜ、“究極のサービス業”という異名がついているのか。
その理由は、総務省で定めた仕事にまつわるもう1つの分類、「日本標準職業分類」にありました。
産業としては「医療福祉」に分類される介護職。
職業としては家政婦さんなどと同じ「サービス職業従事者」に分類されています。ケアマネジャーなどが分類されている「専門的・技術的職業従事者」とは、別部類の職業として位置付けられています。
職業としてはサービス業に分類される介護。
この背景には、「訪問介護」が生まれた歴史にあるのではないかと、金山さんはお話してくれました。
「お世話をする」ために生まれた仕事-戦前〜1999年の介護-
訪問介護の先駆けである「家庭養護婦派遣制度」が誕生したのは1956年。
戦後まもないこの時代、“介護”はいったいどのような位置付けにあったのでしょうか。
(1)“介護”は「家族ですること」から「国ですること」へ。-大きく変化した1960〜70年代-
引用元:愛知県蒲郡市「広報がまごおり昭和45年6月」https://www.city.gamagori.lg.jp/site/kohogamagori/kouhou-4506.html
ネットで検索したら、こんな新聞記事の写真が見つかりました。
そう言って金山さんが見せてくださったのは、「老人にあたたかい手を」というタイトルで始まる新聞記事。写真とともに当時の家庭奉仕員の仕事内容が紹介されています。
ここからもわかりますが、この当時は「可哀想なお年寄りを福祉で助けてあげる」という考え方が強かったんですね。
戦前である明治時代から大正時代にかけて養老院と呼ばれる施設が誕生し始めた日本。
当時は「家族で介護をする」という慣習が根強く、介護は、施設や国で広くおこなうものとして捉えられていませんでした。
しかし、「家族で介護をする」というのは、ある程度の経済力と家族介護力がある家庭だからこそ成り立っていたのです。
身寄りがない人や生活困窮者など、特別な事情がある人は、養老院などで支援されていました。そのため、当時の介護は「社会的立場が弱い人を助ける」慈善的な側面が大きく表れていました。
その後、第二次世界大戦が終わると介護は慈善事業的側面を持つ一方で、「女性の働き口」としての側面も同時に備え持つようになります。
先述した「家庭養護婦派遣制度」。
長野県から始まったこの制度は、当時、戦争で男性家族を亡くした女性が家計を支えていくための働き口として設けられたという側面もありました。
主婦が家事をする延長線として「高齢者の生活をお世話する」ことで給料を得ていたこの制度が、後の訪問介護の先駆けとなりました。
つまり、「家での生活を支援することに特化した家事周りや身の回りの世話」から派生したのが訪問介護であるため、介護は家政婦さんと同じくサービス業に分類されているのではないかと考えられるのです。
さらに、戦後まもなくの日本では、経済力の回復に重点を置かれていたこともあり、介護は、戦後も明治・大正と変わらず、高齢者や生活困窮者などの「弱い立場の人を助けるためのもの」という位置付けでした。
戦後20年が経過した1960年代。
戦争により困窮した日本の経済力は回復をみせ、それまで政策として重点的に取り入れられていなかった「福祉」や「医療」に対して目を向けられるようになりました。
その代表としては、1963年の「老人福祉法」の制定が挙げられます。
この法律が制定されたことで、老人福祉施設や家庭養護婦派遣制度など、それまでは民間の慈善事業的立ち位置にあった介護が、国をあげた事業として制度化されることになりました。これにより、家庭養護婦は「老人家庭奉仕員」へ、養老院は「老人ホーム」へ名称が変更されました。
さらに、「福祉元年」と呼ばれる1973年には高齢者の医療費が一律に無償化。この頃から国をあげての福祉政策が意識され始めました。
1960年代から70年代にかけて、特別な事情を抱えた人のための「救済」や「支援」として位置付けられていた福祉・医療の間口が「総合的な対応」へとシフトしていったのです。
「慈善的事業」から「総合的な対応」への移行に伴い、高齢者に特化した病院が次々と建設されていきました。
国をあげて高齢者への福祉や医療についての政策が作られていったこの時代。
現場ではどのようなことが起こっていたのでしょうか。
1970年代、認知症は「痴呆症」と呼ばれていました。
そのため、家族で介護しきれない場合は、老人病院と呼ばれる病院へいわゆる「社会的入院」という形で長期入院する場合が多かったそうです。
「認知症は精神疾患であり、医療の対象。福祉の対象ではない」
1980年代までは、これが認知症に対する一般的な考え方でした。
そのため社会的入院によってたくさんの患者を抱えることになった病院では、「生活の支援」ではなく、最低限の「お世話」、そして「管理」がなされていました。
部屋に鍵をかける、身体拘束をする、服薬忘れを防止するために食事中に服薬する「食中投薬」…。
認知症になった本人の意思は置き去りにされていた介護。
そんな中、精神病院の現状について問題提起した、大熊一夫氏の「ルポ・精神病棟」など、社会に一石を投じる話題が少しずつ世に出始めました。
(2)高齢化社会に向けての準備を始めた1980年代
今後、日本の高齢化率が上昇していくことが明確になっていった1980年代。
「高齢化社会」を迎える準備が進められていきました。
1963年の老人福祉法の制定から約20年が経過した1987年。
「社会福祉士及び介護福祉士法(士士法)」の制定により、国家資格として「介護福祉士」が定められます。
それに伴い、介護福祉士養成校が誕生。養成校を卒業して資格を取得するルートと、実務経験と国家試験で資格を取得する2つのルートができました。
さらに、高齢化社会へ向けた指針が示された高齢者保健福祉推進10カ年戦略(ゴールドプラン)が1989年に誕生。
高齢者施設の建設目標数や介護職員の必要人数などの具体的な目標数値が設定されました。
さらに、1970年代までは高齢者福祉施設の入所対象外だった認知症の症状がある高齢者も入所の対象となり、認知症が福祉の対象と位置付けられたのも1980年代のことでした。
僕の母が施設で洗濯物を畳むパートをしていた頃、小さかった僕も一緒に施設へ行くことがありました。その時に会ったばあちゃんたちはみんな僕を撫でてくれようとするのですが、縛られているから撫でられないんです。幼心に、彼女たちが縛られて居ることが忘れられなかったですね。
当時の様子を、自身の思い出とともにお話ししてくださった金山さん。
福祉施設への入所ができるようになっても、「本人の意思が置き去りにされる」状況は、老人病院とあまり差がなかったようです。
しかし、認知症の方を管理する状況に疑問を持った人たちが動き出し始めたのも、1980年代の大きな出来事。
それまで一般的だった大型の施設の中で管理をされるような施設ではなく、地域の中で普通の生活を営む「宅老所」が、全国各地に誕生したのです。
当時は草の根的広まりを見せていた宅老所の取り組みをモデルとして、2000年代以降、「小規模多機能型居宅介護」として国が制度化していきました。また、それまでは一般的だった呼称である「痴呆」が「認知症」に変化していったりと、「認知症の人とのかかわり方」が少しずつ見直され始めた時代でした。
(3)「これからは高齢者ビジネスだ!」超高齢社会への準備が始まった1990年代
「いい人材をたくさん育てていこう」
超高齢社会へ向けた準備が始まった1990年代初頭の日本では、「質の高い介護人材」を育てていく動きが強まりました。
1991年、ゴールドプランの発表に伴い、「ホームヘルパー」の養成が開始されました。階層ごとの資格ができたことにより、介護現場に流入する介護人材の育成促進を進めていったのです。
1992年には介護従事者の労働環境を整えるため、「介護労働者法」が制定され、労働実態について国が把握し、その労働環境を整える動きも進みました。
さらに、1993年には福祉人材の質を担保することや就業促進・定着、地域の理解と交流、経営基盤の強化などを目的とした「福祉人材確保のための基本指針」が制定されます。
これにより「専門的な介護人材を確実に養成していこう」という方向性が定まりました。
その後、1994年以降は、2000年の介護保険制度の施行に向けた準備がはじまっていきます。
介護保険は保険料という形で国民から国が新たにお金を徴収する仕組みです。そのため、国民が等しく介護を受けられる環境が必要でした。
それに伴い、1989年に発表されたゴールドプランを見直した新ゴールドプランが1994年に誕生。
ゴールドプランで掲げられた目標を上回る数の介護人材確保や施設建設の目標が5ヵ年計画として掲げられました。
僕はこの頃高校生だったんですが、テレビをつけると「これからは高齢者(産業)がくるぜ!」と聞かない日は無かったんです。今でいう「これからはAIがくる!」といったことと同じような感じでしたね。
介護保険制度に向けた準備が着々と進められたこの時期。
次々と介護事業所が設立され、介護人材が育成されていき、いわゆる“高齢者ブーム”が到来していました。
「認知症の人とのかかわり方」が見直され始めた1980年代から10年。宅老所からヒントを得た小規模なデイサービス事業やグループホームが広がりを見せていきました。
1997年にグループホームは国で制度化もされています。
さらに、ケアの質についても変化が見られ始めます。
身体拘束について見直しの動きが初めてみられたのもこの時期です。1999年に厚生省から身体拘束の禁止が打ち出されました。
「縛ってはいけない」と、初めて明確に文章化されたのです。
さらに、当時の介護現場の人に介護や認知症の人との関わりとは何かを示してくれた三好春樹氏が著書、『関係障害論』を出版。「認知症の症状を、人と人との関係性から考えていく」というケアの方向性が示されたこの本は、介護従事者にとって教科書のような存在でした。
戦前の慈善活動から、国をあげての取り組みへ一気に加速を見せた日本の介護。2000年には一体どのようなことが起きたのでしょうか。
中編『2000年代編』へ続きます。
話題提供者・ファシリテーターの紹介
話題提供者:金山峰之(かなやま・たかゆき)
介護福祉士、社会福祉士、介護支援専門員。
ケアソーシャルワーク研究所 所長。
現場で働く傍ら、職能団体の活性化をはかる活動や、研究、コンサルティング、介護関連の講演、講師、教育活動に取り組んでいる。
ファシリテーター:軍司大輔(ぐんじ・だいすけ)
NPO法人コトラボ代表理事。
珈琲豆屋&珈琲スタンド OLIVE HOUSE COFFEE を運営する傍ら、医療福祉系大学での非常勤講師や 各種介護研修講師を務める 。