MAGAZINE 読みもの

click me!
イベントレポート

遊びながら死を語らう『死生観光トランプ』とは?ー死生観を見つめることで、今を、これからをより良く生きるー(CONA_07 霍野廣由 レポート)

“死”をテーマにした話は、重たいイメージがあり、敬遠してしまいがちです。一方で、とても大切なことなので、“死”について考える機会があったら良いなと思うことはありませんか?

そんな時に活用したいのが『死生観光トランプ』。死について気軽に語り合うためのアイスブレイク・ツール、コミュニケーション・ツールです。

大阪の伝統ある“粉もん”のように、人々の幸せな暮らしに関するあらゆるものをつなぎ、混ぜ合わせ、新たな可能性を探求していく場所“CONA”。

2022年3月21日に開催されたイベント、CONA_07のゲストは、霍野廣由(つるの・こうゆう)さん。福岡県築上郡にある、浄土真宗本願寺派・覚円寺の副住職であり、『死生観光トランプ』を開発しました。そんな霍野さんに、お話を伺い、実際にイベントでも『死生観光トランプ』を活用しました。

『死生観光トランプ』が生まれた理由

まず、『死生観光トランプ』が生まれた背景を教えていただきました。

『死生観光トランプ』を開発したのは、もっと日常の中で死について思いを馳せたりとか、死について問いを持てるようなツールが作れたらいいなと思ったからです。死について語り合う場を京都でやってきたけれど、いつの頃からか、もっと全国に広まっていけばいいのに、と考えるようになりました。

しかし、実際に死について語り合うのは少し敷居が高く、常日頃から死について疑問を持っていたり、思いを持っていたりするような方々が多く来ていたそうです。

でも、よく考えてみると、僕らっていつ死が訪れるかわからない存在だから、もっとより多くの人に死について考えるような機会が作れないかなと思っています。

そんな想いから作られた『死生観光トランプ』。トランプを選択した理由は、「遊びの王様といえば、トランプ」であると考えたからだそうです。タロット占いからスタートしたトランプですが、世界中の人たちが遊び方を考案し、様々な遊び方がどんどん広まっています。

僕らも、遊びながら死を語り合え、また死について問いを持てるようなものがいいなと思い、『死生観トランプ』を制作しました。『死生観光トランプ』は、①死生観に光をあてる、と②世界の死生の物語を観光する、といった2つの思いが込められています。

 霍野さんは『死生観光トランプ』の制作時に、クラウドファンディングに挑戦。結果、100万円以上のご支援をいただいたそうです。現在はBASEで販売されています。「なんか手元にあったらよさそうだな」と思った方は是非ご購入いただきたい、とお話されていました。

『死生観光トランプ』の中身はどのようになっているのでしょうか?

トランプ1枚1枚に、世界各国の死生観であったり、死者の弔いのお作法みたいなものが、イラストとキャッチコピーで書かれています。このイラストも全部、全国各地のお坊さんに書いてもらいました。総勢14名のお坊さんに一人何枚かずつ書いてもらいましたので、イラストのタッチも違います。それも楽しんでもらえたらと思いますね。

安心して死について語り合える場所「デスカフェ」ができるまで

霍野さんが大学生の頃、終末期病棟のホームホスピスでボランティア活動をしていた際、病室で患者さんからお話を聞かせてもらった経験について教えていただきました。

30代の男性で、「余命2か月」と告げられた方がいました。余命を告げられて、日々がどんどん過ぎていく中で、自分が死にゆくことを受け入れられない様子でした。悔しさや怒り、あるいは自責であったり、いろんな想いがあることを聞きました。

家族ともご自身の死やそれに対する想いについて、全く話ができないみたいでした。突然死が目前に迫った時、やっぱり人間って受け入れられないし、もう待ったなしの状況だっていうのは分かるけれど、家族とこれからのことや今の苦悩について話すのは、すごい難しいんだなってことを目の当たりにしました。死について、元気なうち、今のうちに話しておく必要があるんだな、とすごく考えさせられました。

その経験を踏まえて、霍野さんは、安心して死について語り合える「デスカフェ」を作りたいと考えるようになりました。

友達と飲みに行って、「あのさ、 最近死について考えるんだけど」と言ったら「どうした大丈夫か」、「急になんかしんどくなったのか」と変に心配された、という話を聞きました。死について語り合うことは難しいんだなと思いました。だから、安心して死について語り合えるような場所が作れたら、と思って始めたのが「デスカフェ」です。

元々ヨーロッパで広がったもので、霍野さんは日本でも「デスカフェ」を行えたらと考えていたそうです。また、せっかく開催するのなら会議室ではなく「お寺」でやりたいと考え、現在もお寺で続けています。

お寺と言うのは「死者を弔ってきた記録と記憶がある場所」だと思っているので、お寺だからこそ語られるお話ではないかと考えています。安心して死に向き合う時間が作れるんじゃないかなと。

グループワーク①
テーマに合わせたカードを選び、選択理由を共有

霍野さんのお話をお聞きした後、イベントでは『死生観光トランプ』を用いたグループワークを行いました。まずは①〜③に当てはまるカードを1枚ずつ選択します。

①ジャケ買いでカードを選ぶ
「なんかこれかっこいいな、可愛いな」

②自分がいいなと思う死生観が書かれたカードを選ぶ
「この死生観は共感できるな」、「自分も死ぬならこんなの憧れるな」

③自分が納得できない、受け入れられないカードを選ぶ
「全然意味がわからない」、「受け入れられない」、「嫌悪感がある」

選択後は、グループに分かれて選んだカードをシェアしてもらいました。ここでシェアする理由について、霍野さんはこう語ります。

死生観について、自分は全然気にならなかったんですけど、「確かにそういう視点で言われると気になるなぁ」、「面白いなぁ」と共感できることがあります。みんなで語り合う中で、自分の枠組みが少し広がっていったらいいなと思っています。また、色々な死生観に触れてもらえたらなと思いますので、グループでシェアしてもらうのです。

三人称の死が語られることの意味

デスカフェを行う中で、一人称の死と二人称の死だけが語られると、限定的な場づくりになってしまうことに気づいたそうです。

一人称の死:「自分自身が病気になって、もう少しで死んでしまうところだった」みたいなもの、あるいは「実は生きづらい色んな問題を抱えてて、もう死んでしまいたいと思った」というような自分の死にまつわるエピソード

二人称の死:「自分の大切な人が亡くなってしまった」という家族や近親者の死にまつわるエピソード

一人称・二人称の死の話はすごく深いもので、「その場にいる方の共感や自身の経験を引き出す」と霍野さんは話されていました。しかし、やはりこういった話は、同時に「死についての問いや経験を持っている方々に限られてしまう場」を作ることになってしまうそうです。

もっと広くいろんな方々に死について問いを持ったり、死について考える仕掛けを作る時に、一人称・二人称の死、三人称の死、全く自分とは関係ないような他者の死に出会う中で、自分がこれに嫌悪感を抱く理由、あるいは自分が大切にしてるもの、受け入れられないものに出会ってほしいと思いました。

死について語り合う・考える内容ではあるけれど、「三人称の死」から、人によって異なる点や気になる点、世界にある様々な死生観に触れ、「1回大きく壊して自分の枠組みを広げた中で、改めて少しずつ自分のところに近づいていけると良いな」と霍野さんは話されていました。

「LIFE SPAN」を読んで

また、イベントの中では「LIFE SPAN 老いなき世界」という本を取り上げてお話してくれました。仏教では「どんなに逃げ回ったとしても、僕らは生まれたからには必ず老病に捕まってしまう」と説明されることがあります。しかし、医学や科学、テクノロジーが発達する中で、老化のメカニズムは大体解明され、それに対する処方箋も明らかになっています。つまり、これからは老いなき世界が訪れるのです。

本の中では、人間は100歳を超えるなんて当然。平均寿命120歳、最高年齢150歳の世界にいずれなることを提言されています。病なき、老いなき世界の中で、私たちは何を大切にして生きていくのか、どのようにして生きていくのかと問いを投げかけられていているように思います。

グループワーク②
「自分の理想の死」を語り合う

2回目のグループワークは、「自分の理想の死」について妄想し、語り合いました。
霍野さんの理想の死をお伺いしてみると、

お釈迦さんが命を終えた時の図、「涅槃図」のように、親しかった人たちが集まって、その中で最後にお説法しながら死んでいくのが僕の理想の死に方。

と話してくれました。自分自身の「理想の死」を明確に持っていなくても、朧げながらなんとなく、そしてパッと思いついた光景を話していくような時間になりました。

グループワークでは、多様な考え方が出てきました。

・家族に囲まれて賑やかな状態で逝きたい
・誰かに囲まれていなくても、自分の存在をちゃんと知っていてほしい
・亡くなった後、周りの人が困らないようにしておきたい
・メッセージか何かを残しておきたい
・生きていた証を何も残さなくて良い      など

死生観について話し合うことが少ないからこそ、グループワークを通して自分の考えを語り合う中で、色々な気づきがありました。

他にも「誰かの肌に触れたまま、死にたい」、「苦しくなく・痛くないように、死にたい」、「あえて余命を告げてもらい、やり残しがないようにしたい」など色々な話があがりました。参加者の皆さんからの「理想の死に方」を受けて、霍野さんこれまでの生き様や生き方、あるいは生まれた環境がもたらす死生観への影響について話してくれました。

僕もお寺に生まれ、お坊さんとして生きるからこそ、自分の憧れが反映された死生観なのではないかと思います。皆さんも、これまでの経験や「こういう人生を歩んでいきたいんだ」という想いが反映された、理想の死に方の語りだったのではないでしょうか。

「生きる」と「死ぬ」

仏教では生死一如(しょうじいちにょ)、「生まれると死ぬは一つのごとし」という言葉があると話されていました。

仏教では、生きること・死ぬことについて、よくコインの裏表に例えます。生まれたからには必ず、コインの裏表のように死があります。つまり、生きることと死ぬことは遠いものではなくて、1つにつながっている、という話なのです。

また、古典落語の代表作『死神』では、人の命をろうそくに例えられるそうです。火をつけた瞬間からどんどん減っていくろうそくを、人の命のタイムリミットと重ね合わせて表現されます。

命の時間を削りながら生きていく。その中で死を見つめるということは、今僕たちが欲しい未来であったり、これからありたい姿だったりを、改めて見つめる機会なのだと思います。

死を考えないとは、今どう生きるのか・どう生きたいかを考えていない、と言えるのかもしれません。「自分たちのより良い未来を望むのであれば、より良く死を見つめてみたり、考えてみたりすることが大事だ」と霍野さんは教えてくれました。

介護と死生観

また、私たちが死生観を学ぶためにできるアイデアとして、「語り合う」ことが大切ではないか、という話がありました。

死生観の中に答えがあるわけではないし、「こうあらねばならない」というのがあるわけでもない。『死生観光トランプ』やグループワークで死生観や物語と出会う中で、自分が大切にしたいものの輪郭がちょっとずつ出てくると良いですね。

最後に、介護に関わる方々が死生観を育む意義について、お話を伺いました。

勝手な想像ですが、ご縁があった方の死を見送らなければいけない時に、自分自身の死生観が全くなかったとしたら、逃げたり後退りしたりと、最期までその方のお弔いや生き様に寄り添えないこともあると思います。

より良い福祉を提供するためにも、自分自身の死生観の記述を持つことが大切だと思います。まさに介護の現場に携わる皆さんがどうお考えなのか、聞いてみたいですね。

Q&A

ここからは、参加者からの質問にお答えいただいた内容をお届けします。

高齢者やその家族に、信仰について自然と話題にのせる方法を聞きたいです。高齢者介護の仕事で最期を組み立てていくなかで、相手の信仰についてお伺いしたいと思う時がありますが、なかなか聞き出せません。

自分が大切にしている宗教や信仰があった時、それを聞かれることはそれほど嫌なことではないと思います。ただし、その時に想いや信仰を否定したり、自分の宗教や信仰を強要しないことが大切だと思います。大切な想いや、その方の生き様に反映された信仰や宗教を、丁寧に受け取る余力があるのであれば、ストレートに聞いてもらっていいと思います。

信仰について聞くことに大きな壁を作るのではなく、丁寧に受け取る準備や余裕があれば、聞いてもらっても良いと教えていただきました。

死んでいる方を見るのがすごく怖いです。障害分野という仕事柄、日常的に利用者の方が亡くなることが比較的少なく、死に対する怖さがあります。日常の中で話すことで、克服できないかと思うのですが、どうしたら良いでしょうか。

なぜ怖いんでしょうかね?光景でしょうか。

死体が単に怖いのではなく、死の捉え方になんらかの引っ掛かりみたいなものがあるように思いました。克服は結構難しいと思います。僕も葬儀に行かせていただきますが、へこんだり、うーっとグリーフを強く感じることはあります。でも、これらは大切にした方が良い感情で、見なかったことにしたり慣れてしまうことを良しとするよりも、戸惑いや苦しみを簡単に手放さないで欲しいと思います。

「なぜこんなに死を恐れてしまうんだろうか」「なぜ死を受け入れられないんだろうか」という問いを、自分の中で持っておくことも、自分の考えや物差しを豊かにするのかもしれません。

以前介護士として働いていた時に、利用者の方に「やっぱり死にたいねん」「もうはよ連れていってくれへんかな」と言われることが結構ありました。言われるたびにどう答えるか、いつも迷っていました。

その人との関係や背景を考えて、精一杯答えていたんですが、霍野さんはどうやってこのようなお話を聞いていますか。

ありがとうございます。僕も月参り(大切な方のご命日に自宅に伺い、一緒にお勤めをした後雑談をすること)をやっていて、ご高齢の方にぼそっと「生きていても意味ないから、はよお迎えきいひんかな」と言われることがあります。いつも感じるのは、笑いながらそう言っているけれど、その背景には寂しさや色々なもやもやがあるのではないかと。

だからその時の背景や想いを、一度聞いてみるのがいいと思います。「死にたい」という言葉が強いからこそ、そこに囚われてしまうけれど、「なぜ死にたいと思うのか」を少し聞いてもらうだけで、見えてくるのではないでしょうか。そうすることで、コミュニケーションの質も変わってくると思います。

ありがとうございます。聞いていいのかわからず、受容や傾聴ばかりしていたことに気づきました。一回聞いてみるというのを、試したいと思いました。

僕はずっと自殺の相談に携わっているのですが、僕たちが大切にしているのは「死にたいという想いをしっかり受け取る」「その想いに向き合う」ことです。

「死にたい」と言われると、時間がなかったり、聞きたくない話だと感じて、ついつい話題を変えることもあるように思います。しかしそこは踏ん張って、なぜ、その人が今「死にたい」という言葉が出てきているのか、その想いをしっかり受け止めてあげられるといいなと思いました。

霍野さん、ありがとうございました!

ゲストプロフィール

霍野廣由(つるの・こうゆう)

福岡県築上郡にある、浄土真宗本願寺派・覚円寺の副住職。大学在学時に、自死・自殺や終末医療、高齢者福祉の活動に携わる。大学院を修了し、認定NPO法人京都自死・自殺相談センターに就職、現在は事務局長を務める。2022年2月、ココロを記録し、管理するiOSアプリケーション「RECOR」をローンチ。また若手僧侶たちで死について語りあう「死生観光トランプ」を企画開発する。2018年、ソーシャルグッドな新電力会社TERA Energy株式会社を4人の僧侶たちと起業。相愛大学非常勤講師。

イベント概要

日時:2022年3月21日(祝・月)19:00〜
場所:オンライン(Zoom配信)

CONAについて

CONAの由来は、大阪の伝統ある粉物から。いろんな食材をまぜこぜにして、食材と食材をつなぎ、美味しさを引き出す粉のように、人の幸せな暮らしに関わるあらゆるものをつなぎ、掛け合わせることにより生まれる可能性を探求していく場です。

この記事を書いた人

高久綾花

高久綾花 TAKAKU AYAKA

大学生KAIGO LEADERS PR team・KAIGO MY PROJECT team

この記事のタグ